歌詞はリスナーのもの。歌も人生も、好きに解釈しよう~ボヘミアン・ラプソディ
自分の作品を分析しろだなんて言われたら、まともな詩人ならこうとしか言わない。『君がそう思うなら、ディア、そうなんだろうね』 僕の答えも同じだよ。
(フレディ・マーキュリー)
ボヘミアン・ラプソディがあまりにも頭から離れないため、歌詞の意味を考えてみました。
ボヘミアン・ラプソディーって何?
自由気ままな芸術家
現実から逃げることはできない。
目を開いて、空を見上げてよ。
俺は、ただの貧しい奴。
同情は要らない。
だって、ふらふらと
適当に生きてるだけだから。
(ボヘミアン・ラプソディの歌詞)
この映画をみおわったあとの、一番の疑問点。
それは、映画タイトルの意味は何?
「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンの代表曲。今までは、面白い曲だなと思って、何となく聴いてただけでした。
映画タイトルになってるので、歌の由来とか、歌詞の意味とか、そこがメインなんだろうなと、そこが気になって観にいったのですが・・・。意味どころか、この歌の登場自体も予想より少なかったので、あれ?と思ったわけです。
それで気になったのが「ボヘミアン」の意味
社会の習慣に縛られず、芸術などを志して自由気ままに生活する人。(大辞林・第三版)
つまりは、自由な芸術家ということ。映画のタイトルは、歌そのものではなく、フレディ自身を象徴したものということなんでしょうね。
歌詞はリスナーのもの
フレディがどういう思いでこのような詩を書いたのかはおおよそは知っているけど、私達は公表する気はない。
(メンバーのブライアン・メイ)
映画の中では、歌詞の意味や解釈は、詳しくは出てきません。だけど明確な意味は、やはりあるようです。その意味とは、「自身がゲイであることをカミングアウトした歌」というもの。憶測であり正しいのかはわかりませんが、映画の内容もやはり、そこを強調してました。
だけど、意味を公表しないのは、さすが芸術家だなぁと。憶測が憶測を呼び、自分なりの解釈を考える楽しみが生まれます。芸術に解説はいらない。見た人が好きなように受け取ればいい。
作家もよく、「作品が一人歩きしてほしい」ということを言いますよね。解釈は読者にまかせると。
「歌詞はリスナーのもの」そのセリフも、同じです。意味は自分で創造してね、と。
聴く人が自分の解釈をしてくれたほうがうれしい――自分の好きなように読んでくれたほうが
(フレディ・マーキュリー)
ということで、私なりの歌詞の意味。それは・・・、
意味とか理由なんて、何もない!
オペラ風に物語を作り、芸術的に表現した。それを楽しんだだけ。だって、作話って楽しいから。
子どもがよくやりますね。人形遊びとか、おままごととか。たくさんの物語が、あっという間にできあがっていきます。そして、そこに深い意味はありません。純粋に楽しんでるだけ。見てるほうも、ほのぼのする。
歌詞の締めくくりは、こう。
いいこともあれば 悪いこともある 僕にはたいしたことじゃない どっちにしても風は吹くのさ
そう、たいしたことじゃないんです。たいした意味もない。理由とか意義とか、考えても面白くない。好きなように物語を、芸術を、創り上げていく。もっと単純に、純粋に面白がろう。楽しもう! そんなことを、読み取ってみました。
この映画は、史実と違う点が多々あるそうです。
エイズを知った時期も、映画では、「ライブエイド」というコンサートの前に病気を知ったことになってます。それゆえ、「死にたくない」という歌詞がグッと胸にせまってきます。
でも実際は、病気を知ったのはコンサートの後だそう。
それを知ってもなお、感動があります。事実は違うとわかっているのに。そのとき、自分の中では、都合のよい物語ができあがっています。
やっぱりね、作話って面白いんです。
この映画は、時系列を少し前後させることで、より強い感動を創り出したのです。
人生も同じ。自分の経験にどんな意味があるのか? そこを迷ったときは、時系列や他人の動きを前後させたりしながら、面白いものに創り上げてしまおう! それで幸せになれるなら、それでいい。
人生に意味なんてない
意味とか理由とか、やめよう
「これってこういう意味、それともああいう意味、ということしかみんな聞きたがらないんだ」とフレディはため息をついた。
理由なんか考えたってわからない。仕事もそう。過去もそう。他人が言った言葉もそう。どうして、あんなことを言ったの? どれだけ考えても、わかりっこない。だから考え込むことなんて、やめてしまおう。
それより、自分の好きなこと、楽しいこと、心ひかれること。もっと、そこを大切に。
自分の心地よいように解釈して創り上げる。それでいい。あまり考えすぎてると、人生、本当に疲れます。
ワクワクしたなら決断すればいい、ってことです。
ichigo-it.hatenablog.com
愛する人のため、出世のため、お金のため、教養のため、仕返しのため──。自分の行動に、目的や理念などを添えて理論武装する人ほど、長期的な結末はよくないものです。
理由は一つ。好きだからやっている。これでいいのです。
(「ココロの盲点」)
本心なら、もちろんステキ。でも、言葉で自分をいつわる場合が、あまりにも多い。言葉にしたとたん、偽装が始まる。理論武装になる。言葉は後付けだからです。
だからもっと単純なこと。好きだから。楽しいから。旅に出たなら、旅を楽しむ。映画をみたなら、映画を楽しむ。仕事をするなら仕事を楽しむ。家庭にいるときは家庭を楽しむ。
感覚と直感を研ぎすまそう。
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一つ一つを大切に。
事実なんて、どうでもいい。自分の好きなように解釈しよう。
考えすぎる人は、それくらいに思って、やっと、ちょっと考えないくらいなんです。
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※2019年1月追記
だけど、やっぱりカミングアウトの歌
フレディはたしかに私生活で問題を抱えていて、そのことをあの歌に込めようと思ったのかもしれない。たしかに、彼は自分を作り直そうとしていた。
(ブライアン・メイ)
「自分を作り直そうとしていた」というのは、きっと、女性を愛する自分から、男性を愛する自分に作り直すという意味なのでしょう。
「歌詞はリスナーのもの」と言いつつも、ほかの曲に関しては、大まかではあっても、それとなくの意味は答えています。だけど、この曲だけ、かたくなに言わない。
そんなことを考えたら、やはり、カミングアウトの歌というのは濃厚だと思わざるをえません。
答えは決してわからないと思うし、わかっていたとしても多分僕は教えないと思うよ。自分の曲がどういう意味かなんて、当然、僕は人に教えたりしない。教えてしまうのはある意味歌を壊してしまうことだと思うんだ。
(ブライアン・メイ)
「歌を壊してしまう」とは、固定した意味を付けてしまったら、人びとの想像力を奪うからですね。リスナーが、自分の頭の中で美しい世界を築いているかもしれないのに、固定のイメージでそれを台無しにしたくない、と。
同性愛については、受け入れてくれる人もいれば、どうしようもなく嫌悪する人もいるでしょうから、そういう意味で、壊したくなかったのかもしれません。
それにしても、なぜ、そこまで隠しとおすか?といえば、フレディは、生涯、カミングアウトをするつもりがなかったからのようです。
カミングアウトしたらゾロアスター教徒の家族がショックを受けるから自分の殻の中にこもるしかなかった
フレディの家族は、敬虔なゾロアスター教徒です。そして、ゾロアスター教では、同性愛は悪魔だと言われ、禁じられています。
ichigo-it.hatenablog.com
フレディは、家族には絶対に迷惑をかけたくなかったのです。悲しい思いをさせるだけではなく、自分たちのコミュニティから追放されるかもしれないわけです。
同性愛であることも、ボヘミアン・ラプソディの意味も、世間には絶対に言わなかった理由は、そこにあったようです。
ちょっとしたことで漏れてしまう可能性もあるので、身近な人にも決して口を開かなかったのでしょうね。誰もが、「教えてくれなかった」と言っています。
芸術家は意味を語らないんだなぁなんて、最初は軽く考えていましたが、家族にはどうしても言えない、そんな、深い愛情ゆえだったのです。