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最期まで罪悪感に苦しんだフレディは、実は内気で謙虚だった|ボヘミアン・ラプソディ

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罪悪感がある限り、人は幸せにはなれない。愛されているのに孤独。


どんな自分であったとしても、勇気を出して罪悪感は解放しよう。決してワガママなことではない。


この人は何て矛盾の塊なんだろう、とあの晩私は思った。ステージ上ではあんなに傲慢なのに、ステージを降りるとこんなに謙虚で気取りがない。


フレディ・マーキュリー~孤独な道化~



フレディは、謙虚で礼儀正しくて、皆から愛されていた

ステージ上での存在が大きすぎるので、実際に会った時にも圧倒的な存在感を持つ人間なのかと思ってしまう。しかしフレディはそうじゃない。その逆で、とても小柄で、かわいらしいほど少年ぽい人だった。思わず母親のようにあれこれ世話を焼きたくなってしまう。


ステージの上では、豪快なパフォーマンスを発揮するフレディですが、実際の彼は、物静かで内気だったそうです。しかも、謙虚で礼儀正しく、寛容で優しい。


意外な素顔ですね。


どれだけ内気かというと、ライブ後にファンと話そうと思っても恥ずかしくて何も話せないくらいだそう。


もちろん、仲良くなってしまえば豪快に遊ぶし、親しい人にはイライラをぶつけたりもしていましたが。


とにかく、とても気さくで親切で、皆から愛されていたという証言が、数限りなく出てきます。


フレディは静かなヤツだった。時々発作的にクスクス笑ってたけどね。そういう時は、あの大きな歯を隠すために手を口元に持っていくんだ。とってもいいやつだった。心優しくって気を遣う。どこも嫌なところがなかった。フレディがあんな大成功を成し遂げて、心から喜んでいた仲間は多かったよ
(学生時代の友人)


そんなにも皆から愛されているのに、フレディ自身は、孤独を乗り越えることができなかった。


「愛されている事実」と「孤独で苦しむ」ことは、必ずしも一致しないのです。どんなに愛されようが、自分で自分を満たせなければ苦しいもの。


たしかに、彼の背景を探ると、乗り越えられるとは思えないほどの厚くて高い壁が、幾重にもそびえたっています。その壁に、常におびえていたのでしょう。

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その恐怖を忘れたいからこそ、豪快に遊ぶ。享楽にふける。そうしないと心を安定させることができなかったわけです。


あれだけ大成功しているのに、驚くほど自信がないように見えた

.



ステージ上では、究極のショーマン

ステージに上がると僕は違う人間になる。"究極のショーマン"に変身するんだ。それは、そうならないといけないからね。二番手に甘んじるくらいなら僕は止める。気取った歩き方。マイクスタンドにも掴み方がある。そういうのが好きなんだ。
(フレディ)


常に何かにおびえ、自信のないフレディも、ステージへ上がれば変身する。自信たっぷりな様子で、傲慢にも見えるほどのパフォーマンスを繰り広げます。


自分を「ショーマン」だと自覚していたことは、重要だったと思います。


ステージから降りれば本当の自分に戻る。自分でオンとオフをちゃんと切り替えたことは、フレディの栄光を長続きさせる秘訣だったのではないでしょうか。


人は時に、「これは、本当の自分ではない」ことを感じると、そのことに飲み込まれてしまうことがあります。


自分を見失い、演じてる自分がイヤになり、苦痛になり、すべてを投げ出してしまう。


「普通に戻りたい」とは、よくあるセリフ。突然、引退する芸能人などは多いですよね。


だけど、フレディはちゃんとわきまえていた。ステージでは変身するんだということを。ショーマンになって、皆を楽しませるんだということを。そこは、さすがだなと思いました。


カリスマ講師に見える人でも、実は内向型で、一人で閉じこもりたい性格の人も多いようです。


心理学者が言うには、愛する仕事のためなら、苦痛を感じずに外向的になれるのだそう。

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フレディが喜んでショーマンになれたのは、音楽を本当に愛していたからなのでしょうね。


ただし、有名になったことに対する苦痛はあったようです。「しまいにはどうなるんだろうって、不安に思える」、「自分で創り出しておきながら、それから逃げ出したくなってる」ということも語っていたそうです。


街中で見かけた時に、ステージ上の僕を期待されると辛いんだ。あのビッグなフレディを。僕は彼じゃない。もっとずっと静かな人間だ。表向きのパフォーマーの顔と私生活は切り離そうとしてる。多重人格みたいになっちゃうからね。それが僕にとっての代償なんだろうな。といっても誤解しないでよ、僕は哀れ気の毒なお金持ちってわけじゃないんだから。音楽が僕の原動力だ。僕は本当に恵まれているよ
(フレディ)


不安になりつつも、楽しんでいた。楽しんでいたけれども、逃げ出したくもなる。大なり小なり、誰もが感じることかもしれません。どんな状況になっても、葛藤や悩みはつきものです。


それでも、観客を喜ばせるために、全力でパフォーマンスをすることは決して忘れなかったのです。


フレディは、ショービズの黄金律を本能的に知っていた。ショーは魅せないといけないということさ。


自分が目立ちたいという欲求も隠してはいませんが、同時に、観客を喜ばせたいという気持ちも持ち合わせていたからこそ、常に堂々していた。そして、観客との一体感を創り出す。そこが、他の人より抜きんでている理由なのかもしれません。


自分は舞台に上がるのにふさわしくない人間だなんて素振りは決して見せないこと。絶対に謝っちゃダメだ。観客はきみを観に来たんだから、ある晩ちょっとくらい調子が悪くたってかまやしない。
(フレディ/後輩へのアドバイス


これは、大事な心持ちかもしれませんね。「自分はこの場にふさわしくない」って、つい思っちゃいますが、来てくれた人のためにも堂々と振る舞うこと。自分へのこだわりは小さいものです。


愛する仕事のためには変身することができるということ、人を喜ばせるという使命感。やはり、一流の人から学ぶことは大きいです。


罪悪感のせいで、妄想にとりつかれる

被害妄想に苦しんでいた。つまり、陰では人に笑われているのではないか、本当のところ自分は滑稽な人間なのではないか、と悩んでいたのだ。これは、最期までフレディを何より苦しめた苦悩の種だった。


愛されているのに、笑われていると思ってしまう。それは、罪悪感のせいです。人は罪悪感を抱くと、被害妄想にとらわれます。


自分で自分を許せてないからです。


フレディは、あらゆる人に罪悪感を抱いていました。


まず一番は、両親に対して。フレディは、ゲイであることを最後の最後まで、世間に公表しませんでした。もちろん両親にも。それは、自分を守るためではなく、両親を守るためだったようです。


ふたり(フレディの両親)はとてもいい人なんだ。秘密にしないといけない理由はよくわかった。ご両親は敬虔な人たちで、ゾロアスター教では同性愛は禁じられている。家族にはカミングアウトしていなかったんだ


ゾロアスター教では、同性愛は悪魔と同じ。自分が後ろ指をさされるだけでなく、両親も異端児扱いをされてしまいます。


そんなことは、絶対にさせられない。だからこそ、必死に隠しとおしたのです。それって、ものすごい愛情ですよね。


罪悪感とは、愛情の裏返し。愛情の強い人は、罪悪感も強く抱きます。


愛情がわからない人ほど、実は愛されている。自分の愛情がわからない人ほど、実は愛情深い。


罪悪感を抱いている人は、もっと自分の愛情の深さに、気づいてもいいのです。


ただ、愛情深くても、罪悪感を抱かずに幸せに生きていける人もいますね。その違いは何でしょう?


例えば、さかなクンの生き方と比べてみると、わかりやすいかもしれません。

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さかなクンも、フレディのような世界的スターとまではいかなくても、とても天才的な才能を持ち合わせています。そして、好きなことだけを求め続け、ついには夢を実現します。


さかなクンがフレディと大きく違う点は何かといえば、幸せな家庭生活を幼少の頃から経験しているという部分です。いつでも両親が絶対的な味方になってくれた。だからこそ、心は常に安定していたのだと思います。


フレディは、8歳で両親に見捨てられたと感じてしまいました。両親に対する愛情は変わらなかったけれども、どうしようもなく不安になる気持ちは、ぬぐえなかったのです。


ましてや、同性愛であることを両親に打ち明けることはできない。それでは、安心感が持てません。


たとえ両親からの愛情を受けられなくても、誰かからの愛情があれば、心は安定するものです。


だけど、メアリー(元婚約者)との関係破綻により、それも絶望的になってしまった。ましてや、メアリーを裏切ってしまったという、新たな罪悪感を生み出してしまったのです。


同性愛に目覚めてからも、幸せな恋愛関係を築くことはできなかったそうです。ひどい裏切りにもあったり、心の底からの信頼関係を築けなかったり。


それでも、根はやさしい人。誰かを心から憎むということができずに、その憎しみは、すべて自分へと向かうわけです。そして、周囲のあらゆる人に対して罪悪感を抱き続けてしまう。


そんな罪悪感を解放できていれば、もう少し違ったかもしれません。


でも、罪悪感を解放するよりも、享楽にふけることで、ごまかすことしかできなかった。究極的には、向き合うことから逃げてしまったように感じます。


だから、常に被害妄想にとりつかれてしまう。


何にでも過度にふけったが、それは彼が倦(う)んでいることを証明しただけだった。何でも金で手に入るものは手にすることができたが、快楽を得ることはどんどん難しくなっていた。


一時的には癒されたように感じても、またムクムクと罪悪感と被害妄想が襲ってくるので、次は、今まで以上の快楽を求める。求めれば求めるほど、得られなくなっていくのです。


「向き合わない」という態度は、罪悪感の種をどんどん育ててしまうようです。


だけど、現実を考えると、やっぱり自分を許すことなんてできないんです。だって幸せになっちゃいけないよね? 家族を裏切り、恋人を裏切り、いろんな人を傷つけている自分だもの。そんな自分を受け入れることなんて、とてもじゃないけどできないんですよ。


でも、たとえそうだとしても、どんな状況であっても、やはり、罪悪感は解放してしまわないと、孤独と被害妄想がつのるだけ。結局は誰のためにもならないはずです。


フレディを見ているといつも胸が痛んだのは、どんなに力強く大胆でカリスマ性にあふれていても、どういうわけか、それでもとても壊れやすくて、まるで純粋無垢のように見えたんだ。


フレディの歌声には、強烈な感動があるけれど、最期まで苦しみ続けたという事実が、大きな悲しさも感じさせます。痛々しいほどに。


そんな歌声を聴きながら、静かに決意してみよう。罪悪感は不要なんだと。


愛情深いからこそ、罪悪感に苦しむ。


その愛情深さと謙虚さを、もっと自分にも向けよう!

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