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結局、ボヘミアン・ラプソディって何がいいの?悲しみを味わう意義

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ボヘミアン・ラプソディの良さをまとめます。


魅力はいろいろあるけれど、一番は、その悲しみの深さ。


他人の人生を借りて、自分の気持ちが癒される。物語って有り難い。


悲しみが世に送り出した天才も多い。深い悲しみの底で自分自身を深く考察した結果である。
(思考は現実化する)

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悲しみに浸る

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クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの悲しみは非常に深いです。


力強いパフォーマンスと圧倒的な歌唱力には感動を覚えますが、それでもなんだか悲しみを感じる。


いつしか、自分の悲しみをそこに重ね、歌の世界に入り込んでしまう。


感情というのは、思いっきり表現して、思いっきり感じてしまえば、癒されていくもの。


クイーンの歌は、そんな癒しの力を提供してくれます。


他人の悲しい姿を見ると、自分のなかにも悲しみがわいてくる。それって、人間にしか持てない共感と癒しの力です。

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そして、悲しみに浸りつつも、最後は力強さで終わる。元気を出して頑張らなきゃと思える。ストーリーの構成として見事です。


私は、自分の感情を感じるのが苦手。ついクールになってしまう。映画を観て泣くこともほぼありません。


それでも、フレディの悲しみって何だろう?と考え続けるなかで、フッと悲しみがわきおこってきました。あぁ、自分は悲しかったんだなと。


急に悲しくなってきて、人の前で泣いたらビックリされました。「あなたも泣くことあるんだ?」と。


自分の悲しみを見せるって、意外と喜ばれるものですね。


自分では良かれと思って元気に振る舞うのですが、それが逆に、「この人は自分の支えなんて必要としてないんだ」と、周囲を拒絶する結果にもなってしまいます。


頼ってくれるってうれしい。それを拒絶されるわけですから、相手は寂しいのです。


わかってくれないと嘆くとき、実は相手も、寂しいのかもしれません。


逆に、もしも周囲に、クールで冷たい感じのする人がいたら、ちょっと考えてみてほしい。もしかしたら、葛藤を抱えてたりするのかな?と。


意外とね、クールな人ほど葛藤してます。そんなふうに優しい目で見てくれると有り難いですけど。


まぁでも、自分でちゃんと悲しまなきゃいけないです。それが誰かの力になったりする。


そう言いつつも、すぐに冷静になって、とってもクールな頭でこの文章を書いてますけど。


悲しみを出すって難しい。だから、歌を聴く。


自分で作曲することはできないから、他人の力を借りて癒してもらう。


自分の価値を考えるうえでも参考になりそうです。


悲しみを表現すると、それに共感した人に癒しを与えることができます。つまりは人の役に立つってことです。


そして、自分にとっては簡単なことでも、他人には難しいこと。そこに、喜ばれるポイントがある。代わりにやってあげれば、仕事にもなります。


決して芸術だけの話ではなくて。自分の悲しみをめいっぱい何かで表現してみる。目の前の目標にぶつけてみる。それが、大きな力になるかもしれませんね?


悲しみって、大きな力をもってます。


そんなことを考えるきっかけとなりました。


当たり前の実践

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ライヴ・エイドというチャリティーコンサートに向けて、他のミュージシャンは練習をしてこなかったそうです。


なぜなら、そんなに大きなイベントだとは思わなかったから。


だから、完全にクイーンにもっていかれた。クイーンは、当たり前のことをやっただけです。


練習を重ねて臨んだ。皆が喜ぶことを考えた。


やっぱり基本が大事ってことですね。


たとえば仕事なら、資料の提出前に確認作業を怠らないとか、困ったらちゃんと相談するとか。


もっともっと当たり前のことでもいいかもしれません。挨拶するとか。


だって、当たり前のようで、誰も実践できてないからです。


「これはこの程度」と、自分で判別をつけずに、すべて全力で挑む。そんな習慣を身につけられたらいいと思います。


行き詰まってきたら、「当たり前の実践」。それを言い聞かせよう。


昔、マンガ「美味しんぼ」で見た内容を思い出します。


味にはまったく優劣をつけられない、難しい対決があったのですが、後片付けができてるほうに軍配が上がった。どんなにいい料理を作っても、片付けのできないシェフは一流とは言えない、と。


当たり前のことができるかどうかで、一流か二流かも決まる。


美味しんぼを見たときも、なるほどなぁと思い、いまだに鮮明に覚えているのですが、実践はできていない・・・。


そんなときは、ボヘミアン・ラプソディを観てみよう。


ヒットをねらう

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ヒットをねらうというと、悪くいえば、打算的だとか、世間に迎合しているとか、何かイヤラシイ感じ。悪いイメージがつきまといます。


それより、純真に頑張るほうがいいのでは?とも葛藤する。


だけど、ヒットというのは、人の心をつかむこと。人の求めているものに耳を傾けるということです。


打算で考えたところで、生まれるわけがない。人の気持ちがわからなければ何もできないのです。


それって、迎合してるとか、媚びてるとかではなく、ものすごい愛情なのでは?


ヒットをねらい続け、時には、そのために自分のこだわりを捨てることは、普通の人にはできないことではないでしょうか。一流の証ですね。


「自分は自分・・・」と甘ったれた考えで納得させてしまうことはよくあります。


上司がわかってくれないとか、誰も見てくれないとか。世間が自分をわかってくれないのではなく、自分が世間をわかってないってこと。


人の心をつかめてないわけですよ。それを「自分らしさ」でごまかす。そっちのほうがよっぽどイヤラシイ。


人の心を思いやるって、すごく難しいです。意図したとおりにはいかない。


だからこそ、執念をもち続けるというのは、とても大切。考えてもわからないけど、考えないとどうにもならないからです。


打算とは違うような気がしてきました。


では、なぜヒットをねらえたのか? なぜ人の気持ちがわかったのか?


それはやはり、悲しみと罪悪感の深さゆえだと思います。


罪悪感は解放したほうがいい

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フレディの人生にはいろんな出来事がありましたが、一番はやはり、両親への罪悪感だったと言えるでしょう。


その生涯を考えたら、罪悪感を抱くのも無理もない。非常に重たいものを背負っています。


だけど。それでも・・・! やっぱり罪悪感は解放してしまわないと、いつまでたっても苦しみは解消されない。


どれだけお金を稼いでも、どれだけ世間から愛されても、どれだけの遊びをし尽くしても、それでも罪悪感が消えることはなく、苦しみ続けた。


フレディがやるべきだったのは、人を求め、癒しを求めるよりも、その罪悪感を解消することだったのではないかと思います。


客観的に見ていると、そう感じますけどね。実際は難しいです。


私も、親への罪悪感がずっと消えません。普段は忘れてますが、ある時にふっと思い出されては、苦痛がよみがえることがあります。ボヘミアン・ラプソディを観てからは、特にまた刺激されてます。


フレディは、病気がひどくなってきたときに、親の面会を断ったそうです。苦しんでる姿はみせられないと。やはり、罪悪感が最期まで解消されなかったのでしょう。


罪悪感は解放してあげなきゃいけない。そうしないと、自分も相手も、結局は苦痛が続きます。


悲しみも罪悪感も、内に抱えるエネルギーは強大。偉大な芸術は、ほとんどがそこから生まれたのではないでしょうか。


そのエネルギーは良いほうに発揮し、最終的には解放してしまいたいですね。


深い悲しみにあるときほど、無限の英知と密接になることができる。悲しいときの祈りは最も無限の英知の心を動かすので、明白な結果が表れることが多い。
(思考は現実化する)


大人の悲しみは深い。じっくりと浸ろう。そこから生み出されるものを大切に。

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