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欠点を見ないほうがうまくいく~哲学者ラッセルの幸せの秘訣

幸福論 (角川ソフィア文庫)



今日、私は生活をたのしんでいる。いや、こうも言えるかもしれない、これからさき、年齢を重ねるごとに、私はいっそうこの生活をエンジョイ(楽しむ)するだろうと。


文明的な生活をしつつ、
不幸を感じてしまう。


仕事や家庭生活において
苦しみを感じる。


この幸福論は、
そんな人を対象に
書かれたものです。


哲学者・ラッセルの
「幸福論」


詳しい生い立ちは
書かれていませんが、
ラッセルは
不幸だったようです。


自殺を、何度も考えたと。


大学では哲学を
専攻したようなので
何か、内面的な
苦悩だったのでしょう。


そんな彼が、人生を
楽しめるようになった。


いわゆる普通の人が、
不幸を感じる原因とは、


あやまった世界観
あやまった道徳論
あやまった生活習慣

だそうです。


そこから脱却するだけで
幸せに生きていける。


今回は、そんな話。



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不幸の源泉

自分に興味を持ちすぎ

私は以前から私自身の罪とか愚かさとか欠点とかについて思いをひそめる習慣をもっていた。


彼が不幸だったのは、
彼の興味対象が、


自分の罪
自分の愚かさ
自分の欠点


そこにばかり、
向いていたから。


自分自身に対する興味は結局なんらの進歩的な活動をも もたらすことはない。


人は皆、必要もないのに、
自分の悪い部分に
目を向けすぎなのです。


それこそが苦悩の源泉。


なぜなら、
内へ内へと
こもってしまうからです。


自分が悪いと思う
自分を責める
自分を許せない


それは、
とっても苦しいことです。


究極は、


自分なんて
産まれなきゃよかった


そうなってしまいます。


だから、
自分に目を向けるのは
やめよう。


それを、ラッセルは
訴えています。


自己非難は、母親への信仰から生まれる

彼が恋をするとき、彼が求めるものは母親のやさしさである。けれども、なまじ母親のイメージがちらつくために、彼は恋人の示すやさしさを受けいれることができない、彼はこうして彼と性的関係を結んだいかなる女に対しても尊敬を感ずることができない。そこで、彼は絶望のあまり、残酷になる。残酷になってこれを後悔する。


ここで言う「彼」とは、
罪の意識をもってる人。


つまり、
自己非難をしてしまう
罪悪感を抱いてしまう
そんな人。


そういう人は、
恋愛だけではなく、
あらゆる人間関係で
苦しむことになります。


その罪悪感とは、何か?


それは、
幼少期に植えつけられた、
母親への罪


母親は子どもに、
いろいろなことを教えます。


ウソをついちゃいけない
悪口を言っちゃいけない
悪い子は置いてくよ


子どもは、
母親に愛されることを
一番に望むので、


母親の言いつけを
破ってしまったとき、
とてつもない罪の意識を
抱いてしまう。


その呪縛が、
大人になってからも
私たちを呪い続けます。


今、目の前のものに
罪悪感を抱いてるのでは
ありません。


幼少期の頃の母親。


その見えない影に、
常に罪を感じるのです。


こんなことをしたら
お母さんに嫌われる


その苦悩から
逃れたいからこそ、


自分がどれだけ、
他人から愛されるか
称賛されるか


そこを基準に生きる。


それが、
自分にばかり
目がいく原因
です。


解決策は一つ。


幼年期にうえつけられた信仰や感情から解放されることこそ、母性愛の「徳」によって蝕まれたこれら犠牲者のための幸福への第一歩にほかならない。


あくまでも、
幼い子をしつけるための
見せかけの教訓でしか
なかったのです。


母親に対する信仰。


勇気をもって、
そこから脱出しなければ
なりません。


幼いときの従順は、
大人になってからの
毒になってしまいます。


「ごりらかあさん」のような
お母さんがいたら、
幸せでしょうけどね。

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それでも、
巣立たなければなりません。


母親から
精神的に離れましょう。



内よりも、外へ!

自分には無関心に。外へ関心を。

だんだんに、私は私自身やまた私のもっているさまざまな欠点について無関心となることを学んで行った。私は私の注意を私の外なる事物に──たとえばこの世の状態とか、いろいろな知識の部門とか私が愛情をもっているひとりひとりの人とかいったものにいっそう多く向けるようになってきた。


親から離れ、
目を外に向けること


そして、
自分の欠点には
無関心になること


それが
ポイントのようです。


欠点ばかり見ていたら
キリがありません。


欠点なんて
必ずあるからです。


努力の源とするなら
いいのですが、
見つめすぎてても
いいことありません。


他人は自分をどう思うか、
そればかりを
気にする人生に
なってしまいます。


自己自身への没入が他の方法ではいやしがたいほど深刻になっているような不幸な人間にとっては、外面的な訓練こそ幸福に至る唯一の道なのだ。


欠点を克服するよりも
幸せになるほうが
大事なのです。


いや、むしろ、
欠点を考えすぎる。
それこそ欠点!

ということでしょうか。


内面闘争よりも、外的目的を持とう

自己のなかに閉じこめられることほど、沈うつなことはなく、外部に向かって注意とエネルギーを注ぐことほど、愉快なことはないのだ。


「自己のなかに
閉じこめられる」


苦しいはずです。


自分で自分を、オリへと
閉じこめるのですから。


だから不自由なのです。


欠点ばかり見つめる
親の目が気になる
罪悪感を抱く


そんな内面闘争を
繰り広げるよりも、
もっと外に目的をもとう。


そうすれば自由になる。


興味をもつべきは、
自分ではないのです。


他者への関心
社会的に意義のあること


外へ外へ!



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自分を忘れると、喜びがやってくる

情熱ではなく、単なる陶酔

自己分裂をしている人間は興奮を求める、気晴らしをさがす。彼が強烈な情熱を愛するのは、健康な理性のためにではなく、むしろ、その瞬間、自分を自分の外に投げ出し、思想の苦痛に満ちた必然性を防止するためである。いかなる情熱も、彼にとっては、一種の陶酔である。しかも彼は根本的な幸福について考えることができないがゆえに、苦痛からの脱却はすべて、ただ、陶酔の形式においてのみ可能と映ずるのだ。だが、これこそ、根深い疾患の徴候である。


何かに夢中になる
情熱的


決して
カッコいいことでは
ありません。


罪悪感をもった人には、
それらは単なる陶酔。


罪の意識から
一瞬でも逃れたくて
常に興奮や気晴らしを
求めてしまうのです。


仕事が苦しいのも
そこが原因になります。


罪の意識を消したい。


だから、
人からの称賛を求め、
必死で成果を出す。
人に尽くそうとする。


あらゆる良い行動も、
目的が、
罪から逃れることなので、
苦しさを生み出します。


いやしくも陶酔を必要とするごとき幸福はまがいものの、不充分な種類のものにほかならぬ。


陶酔とは、
幸福もどき


目的も行動も、
すべてが内向きだから。


本物の情熱との見分けは、
他人からの称賛を、
必要とするかどうかです。


能力を発揮することで、自分を忘れる

最大の幸福は、自己のさまざまな能力を最も完全に生かすこととともに訪れてくるだろう。最も強烈な歓喜が経験されるのは、まさに、精神が最も活発に働いている時であり、最もわずかな事でも忘却されている瞬間である。


一番いいのは、
自分の能力を
最大限に発揮すること。


そこに充実があり、
喜びがあり、
幸せを感じる。


自分がもっとも
喜びを感じる分野に
没頭することで、
自分を忘れる。


現実逃避でもなく、
陶酔でもなく、
もっとスッキリしたもの。


幼少時代に両脚の使用をうしなってしまった一人の男を知っている。しかし彼はその長い生涯を通じていつも朗らかに幸福であった。彼がこのような幸福を獲得したのは、バラの害虫について五巻の著述を書くことによってであった。


カーネギー
「道は開ける」でも、


悩みを克服するコツは、
建設的な仕事に没頭し、
忙しくすること

とありました。


ポイントは、
「建設的な仕事」
というところです。


忙しい状態に身を置くという単純なことで、なぜ不安をぬぐい去ることができるのだろうか? そのわけは、ある法則──心理学が明らかにした最も基本的な法則のためである。その法則とは、どんなに優秀な頭脳の持ち主であっても、人間は一度に「一つのこと」しか思考できないというものだ。(「道は開ける」より)


私は最初、
現実逃避では?と
思ったのですが、


夢中になり、かつ、
意義のあるものなら
逃避ではないのです。


運が良ければ、
人の役に立つことにも
なります。


だから、研究者には
幸せな人が多いそうです。


好きなことに没頭し、
しかも、人の役に立つ。


遊びやお酒で
逃避するのではなく!


そういったものを
探してみましょう。



飽きるまで、考える

深く考えたあとに、忘れる

諸君があること──どんなことにしろ──についてくよくよ考えずにはおれないような気がする時には、最もいい方法はいつでも諸君がひとりでにそれについて考えるよりもいっそう強くそれを考え、最後にその事柄の病的な魅力がすっかり消えてなくなるまで考えることである。


考えないようにする


私たちには、
それができません。

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考えないようにすると
さらに考えてしまいます。


思考を追い出すのは
難しいのです。


一番いいのは、
飽きるまで考えること。


中途半端に考えるのではなく
強く深く、
徹底的に考えるのです。


そうすると、
飽きてきます。


だって、
三日坊主になることって、
よくありますよね。


考えることも、
必死でやれば、
三日くらいで
イヤになるはずなんです。


そこまで
徹してみましょう。


深く考えたあとに
忘れてみると、
不思議なことが起きます。


脳は、地下活動をしている

何か相当困難なトピックについて書かねばならない場合、そのいちばんいい計画は数時間ないし数日間非常に熱心に──私にできる最大の熱心さをもって──そのトピックについて考えることである。そしてその時機が過ぎてから仕事がいわば心の地下で進められるように命令を出すのである。それから幾月かたって私は再び意識的にそのトピックにかえってくる。そして地下の仕事がすでになされているのを見出すのである。


意識してないところで、
無意識は働いています。


考えに考えたことを
無意識の中へ投げると、
いつか熟成して
戻ってくるのです。


たとえば、
夜寝る前に悩んでたことが、
朝、起きたら、
急にひらめいた。


そんな経験、ありませんか。


寝ている間に
無意識が
動いてくれるんです。


だから、何かについて、
深く深く考えたら、
そのあとは
リフレッシュする。


自分の考えを、
無意識へ任せる。


そうすると、
知らない間に
解決してしまいます。


ずっと考え続けるのは
非効率だったんです。


リラックスする
リフレッシュする


それは、
自分の無意識を
信頼する行動でも
あるのですよ。


根気よくやるより、
無意識に任せましょう。


ただし、その前に、
深く考えるというのが
コツです。


考えに考えたら、
自分の欠点は忘れてしまおう!


でも、忘れたほうがいいのは
わかってても、どうしても、
寂しくなってしまう。


どうして誰も
理解してくれないのか・・・


次は、そんな、
孤独な気持ちのなぐさめ方。

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~まとめ~

内ばかり見すぎて、
外が見えてない
これぞ欠点!


自分に無関心になろう




幸福論 (角川ソフィア文庫)

幸福論 (角川ソフィア文庫)