ichigo's blog

気軽な日記ブログです

とにかく行動?まず考える?~幸せになるのは、どっちだ?

木こりの一撃。
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どんな人間においても、行動する時には意識を消し去る。情容赦のないこのヴァイオレンス〔荒ぶる力〕は木こりの斧の一撃に通じるものがある。


幸せになる秘訣は、
体を動かすこと。


それが、
アランの幸福観です。

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そうは言っても、
考えなくてもいい、
というわけではない。


また、
動いたからといって
必ずしも、
幸せとは限らない。


大事なのは、


幸せになる考え
幸せになる行動


今回は、そんな話です。


アランの「幸福論」



幸福論 (岩波文庫)



しっかり考えよう

苦しみは、感情に引きずられる状態

混迷した思惟のなかでわれわれが悩むのは、混迷した思惟そのものではない。

むしろそういう思惟に対する一種の戦い・抵抗である。


あるいはそう言ってよければ、事物が今あるような姿であって欲しくないという思いなのだ。


情念のはたらきの中には必ず、取り返しのつかなさに対する抵抗のようなものがある、とぼくは思う。


青文字の言葉が難しいですが、
単純に言うと、
「感情」と「思考」です。


情念:心につきまとう思い(=感情)
思惟:心で深く考えること(=思考)


思惟は、
「しい」と読みます。


私たちは、
自分の思考によって
苦しむわけではありません。


事実を認めたくない
そんな、
思考に対する反発心
感情によって苦しみます。


本当はこうじゃない
こんなはずはない


そう思うから
苦しいのです。


例えば、
家族に対して。


愛情深い人のはずなのに
(私を愛さないなんて)
という思い。


例えば
失ったものに対して。


さっきまではあったのに
(今もあるはず)
という思い。


思考が暴れるのは、
事実をねじまげようとする
感情
のしわざです。


だから、強靭な精神をもつ人間は、


自分が今どこにいるのか、何が起きてしまったのか、まさに何が取り返しのつかないことなのかを自分で考えて


そこから未来に向かって出発するような人だと、ぼくは考える。


今いる場所
起きてしまった事実
元には戻らないこと


それを認め、
未来に向かっていく、
そのために考える


それこそ、
幸せになるための思考。


どうにもならないこと
事実をねじまげること


そういったことを
必死で考えても
何の意味もありません。


感情に
引きずられているだけ
なのです。


悲しみに翼を与える

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思考が悲しみに翼を与え、悲しみが飛翔する。


それに対して、反省をもってすれば、しかもそれが的を射たものである限り


翼がへし折られて、悲しみは地上をはいまわることしかできなくなる。


思考は、
悲しみに翼を与える


美しい表現です。


考えに考えた末に、
悲しみが飛び去っていく


自由になるために
考えるのです。


いつまでも、悲しみの中で
グルグルしているなら、
それは不毛な思考です。


反省というのは
あまり役立ちません。


反省は、説得力を
もっているからです。
ネガティブな言葉で、
自分を説得してしまいます。


翼を与えるどころか
どんどん飛べなくなる。


気力がなくなるのは、
悲しみに翼を与えることを
しないから
でしょうね。


考えすぎかな?と迷ったとき、
翼を与えてるかどうかで
判断してみましょう。


情念の方は期待をもとうとし、


ある意味で思惟に対して、


もう一度同じ道をたどり直して、どこかちがう場所に通じる分岐点を見つけるように命じているのである。


期待とは
コントロールです。


どうにもできない事実を
コントロールしたくて、
あっちへこっちへと
思考を支配します。


失恋したショックで
ストーカーに
なるようなものです。


失ったものはあきらめ、
前へ進むために
考えなければなりません。


思考によって、楽しみを得る

人からもらう幸福が欲しいという、救われることのない考え
……

労苦こそよいもの

......

精神はこの矛盾を乗り越えなければならない。


精神は思惟によってこの労苦を楽しみとしなければならない。


もらいものの幸福は、
本物の幸福では
ありません。


山頂に行くこと自体が
目的であるなら、
登山を趣味にする理由は
どこにもありません。


飛行機で行ったほうが
楽に決まっています。


それでも登山家は、
自分の足で登りたい。


苦労の末に勝ち取った幸せを、
味わいたいからでしょう。


山頂への到達が
目的ではないのです。


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しかし、
「幸福」という言葉になると、
なぜか登ることを嫌がります。


今すぐ行きたい
誰かに連れてってほしい


でもそれでは、
真の幸福は感じない。


矛盾しています。


その矛盾に、
思考の力によって
気づかなければなりません。


労苦を楽しみに変える。
むしろ、労苦こそ楽しみ。


気の持ちようではありません。
自分の考えで、
自分の錯覚を破るのです。



正しい行動であるべき

行動は、意識と感情を消す

行動の力は思いのままに自己を正当化してしまう。
なぜなら、この力は心のあかりを消し去るからだ。そのために、つまらない情念の群れが消える。


反省の中ではぐくまれていたいっさいの情念が消え去る。憂鬱や厭世感や陰謀や欺瞞や恨みや小説めいた愛情やぬけ目のない悪徳のようなものがすべて消え去るのである。


しかし、正義もまた行動の流れの中で消え去ってしまうのだ。


感情に支配されずに考える。


それは、
とても難しいことです。


どうしても、感情に、
引っ張られるからです。


そんなときの合言葉は、
まず行動!


行動は、
「心のあかりを消し去る」


行動に没頭し始めると、
感情を忘れます。
意識が消えます。


いつの間にか、
楽しさや喜びがわき、
頭がクリアになります。


ランナーズハイというのも
それですね。


そうは言っても!


良いことばかりでは
ありません。


注意すべき点は、
悪をも消してしまうこと。


なぜ戦争が起こるのか。人間は行動のなかにおぼれてしまうからだ。


戦争は、
その最たるものです。


何も考えずに、
悪の道へ突進してしまう。


そんな危険性をも
伴なっているのです。


中毒になってしまう人、
ストーカーのような人も、
夢中で行動しています。


イヤな感情を消したくて、
行動に突っ走ってしまう。


良い結果だけではなく、
悪い結果も引き起こす。


だから、
猪突猛進は
忌み嫌われるのですね。


「よく考えなよ」と、
周囲は制するわけです。


「まず行動!」も大切。
「よく考える」のも大切。


一体、
どうしたらいいのでしょう。
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正義にもとづいた行動を

人間は快楽よりも行動を愛する。その行動とは、他のどんな行動にもまして規律のある規則正しい行動、そして何にもまして正義のための行動のことである。


行動といっても、
やみくもに行動するのは
やはり良くありません。


規則正しく、
正義のためであるべき。


結局は、
私たちの思考によって
行動も統制すべきもの。
ということです。


正義と言われると、
なかなか難しいですが、


他人の不幸の上に
不幸を築かない


そう思えば、
考えやすくなるのでは
ないでしょうか。


つまり、
人を傷つけない
親切な行為をする
不正をしない


そういったことです。


心して、
「行動におぼれる」
という状態を
避けなければなりません。


行動のあとに
むなしさがわくのか
喜びがわくのか


それは自分が一番、
わかってるはずです。


選んだら、楽しむこと

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アリストテレスはあの驚くべきことばを吐いている。真の音楽家とは音楽を楽しむ者のことであり、真の政治家とは政治を楽しむ者のことである、と。「楽しみは能力のしるしである」と彼はいうのだ。


音楽を楽しむ者が
真の音楽家だと言うなら、


写真の子どもこそ、
一番の音楽家です。


もちろん技術は大事ですが、
それ以上に必要なのは、
自分がそれを楽しめているか?


ひとたび選択した行動なら、
それを思いっきり
楽しんでこそ、
本物の行動になります。


混合物のなかで、ぼくは、砂金採集家のように、砂利や砂を棄てて、どんなに小さくとも砂金を見分けねばならない。探すのがぼくの仕事だ。


やっぱり、
あっちを選べばよかった。


そんな考えではなく。


選んだこっちの中から
砂金を探す。


選ばなかった選択肢は
棄て去ること。


選んだ中での悲しみも
棄て去ること。


取捨選択とは、
楽しむことに
ほかなりません。


反省なんて、伐採してしまえ

しあわせになる秘訣の一つは、自分の気分に無関心になるということだ。(中略)
つまり自分のあやまち、自分の悔恨から、すなわち自己を責めるいっさいのみじめな反省からほんとうの自分を切り離すことである。「この怒りだって、おさまりたくなればおさまるさ」と言うことだ。相手にされない泣く子と同じようなもので、怒りはすぐにおさまるだろう。


よく言います。


過去から学べ、と。


学ぶのであって、
反省とは違います。


間違った行動に走るのは、
反省を消したいから。


反省によって生まれる、
自責感。むなしさ。


それらを感じると、
どうしても消したくなります。
感じ続けることに
耐えられないからです。


行動におぼれるのは、
そんな状態。


だから、
反省なんて要りません!


反省と学びを
混同しないように。


木こりがいなければ、藪や蛇や沼や熱病や餓えがすぐにまた現われるであろう。同じようにして、人はおのおの自分の気分を開墾する必要がある。


木こりの一撃のように、
反省や後悔は、
バシっと!!
伐採してしまいましょう。


反省や後悔を繰り返す考えは
しないほうがマシ。


伐採とは、
自分を許すこと。


自分を許せないと、
間違った行動になるし、
楽しむこともできません。


「まず考える」タイプの人は、
伐採作業こそ、すべき。


そして、
自分の行動が正しいかどうかは
自分自身が、最大限に、
楽しめてるかどうか


楽しめない行動は
しないほうがマシ。


砂金収集を始めること。


それこそ、
「まず行動!」の本領発揮。


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で、先にすべきは
行動か?考えか?


楽しめていれば
結局はどっちでもいい!
その中身が大事!


この続きは、また次回。



~まとめ~

思考とは、
悲しみに翼を与えるもの
労苦を楽しみに変えるもの


行動を始めたら
思う存分に楽しもう




幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)