今日は祖父の葬儀です。感謝の気持ちで涙が止まらない
大事なことを忘れてた。家族と共感し合うこと。それを無視して、もう何十年も一人でもがき続けてきた。
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先日、祖父が亡くなりました。
94歳の大往生。あと1か月もすれば95歳でした。
苦しむこともなく、本当にスーッと眠るように。理想の最期です。
祖母はもう何年も前に亡くなったのですが、祖母のときと同じような臨終でした。
皆が集まってくるのを待ってるかのように、全員が来てから、静かに目を閉じて。苦しまず安らかに。
幸せそうな顔だったので、もちろん悲しいんだけど、悲しくない。眠ってるかのようでした。
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私の実家と、祖父母の家は、歩いて3分の距離。子どもの頃から、しょっちゅう遊びにいってました。
祖父母が大好きで。
何かあったときには、自分の家ではなく、祖父母の家へ。かけこみ寺のよう。
仏教を信じていた祖父は、仏教系の本をたくさん持っていたので、私はそれを読みながら、人生って何?なんて考えてました。ネクラですね。
でも、そこから得たことは大きくて、子孫に残す一番のものは本である!と思ったりしてた。
ずっと忘れてたけど、そんなことが、ふつふつと思い出されてきました。
幸せそうな死相に、悲しいでもなく、泣くでもなく、わりとスッキリした気持ちで過ごしていたのですが、なぜか、葬儀の日が近づくにつれ、心が重たくなってきたんです。
会社でも、ちょっとしたことでイライラしたり。無気力感に襲われたり。
やっぱり自分は、仕事が嫌いなんだなぁなんて思いました。
葬儀のことで、家族や親せきと集まらなければなりませんでしたが、皆の会話に興味が持てず、何が楽しいんだろう?なんて客観的にながめていたり。
やっぱり自分は、内向型なんだなぁなんて思いました。
ところが、です。
なんの前ぶれもなく、急に涙が出てきた。しかも、あふれ出したら止まらない。
あ、悲しかったんだ。仕事が原因じゃなかった。会話がつまらないわけでもなかった。
そんなことにも気づけないくらい、なかなか自分の感情が出てこなかったんです。
涙が出てきて、親戚に驚かれました。え?悲しかったの?と。急に、やさしくされまして。
悲しみを見せると、人ってやさしくしてくれるものなんだ? そんなことにも初めて気づきました。
わかってくれないって思うのは、出してないからですね。そりゃあ、わかるわけない。
ボヘミアン・ラプソディについて考えていても、なぜか心が重たく、書いててもスッキリ感がなかったんです。
なんだろうなぁと思ってましたが、自分の悲しみを抑えてたからだったようです。
きっと、感情が出せないわけじゃなく、無意識に逃げてしまうのです。怖いから。
「黙ってなさい」と、言われ続けた幼少時代だったので。
だけど、黙ってなさいと言われたって、黙らなきゃいけないわけじゃない。今ならわかります。
自分の行動は自分で選択するということ。
じゃなければ、「〇〇さんが〇〇って言ったから」という生き方を、ずーっと繰り返すことになる。
取捨選択はしていいんです。そして、不要なものは捨てていい。
そんなことが上手にできずに、すべてを詰め込みすぎて、いつしか自分がわからなくなってしまいました。
そんなこんなで、感情を出せない自分ですが、あふれてきたんです。感謝の気持ちが。悲しみが。
祖父は本当に素晴らしい人でした。
祖母が亡くなったときも悲しいことは悲しかったのですが、やはり涙はまったく出ませんでした。葬儀で皆が集まるということが楽しく思えたし。まだ祖父もいたし。
だけど今回は、祖父母の家もなくなってしまいます。思い出につまった家が。
祖母が亡くなったときから、そのことはもう見えていたので、できる限り長生きしてほしいと思ってました。いつでも祖父の家に行けるという安心感は持ち続けたかったんです。
だけど、もう本当になくなっちゃうんだなぁと。家の問題というより、祖父母がもういないということが、やっと実感としてせまってきたのかもしれません。
そしたら、もう、涙が止まらない。
自分で思ってた以上に、精神的な支柱になっていたんですね。
何も恩返しできなかったという後悔もあるし、寂しさもあるけど、そんなことよりも、ただただ悲しい。
いや、悲しいのかどうかさえ、わかりません。なぜ涙が出るのかもわからないけど、とにかく涙が止まらない。
たくさんのものを、たくさんの幸せを、祖父母にもらいました。私がもらったものに比べたら、私ができてることなんて何もない。
ネクラで内気な自分を、いつでも迎え入れてくれた。何も言わずに見守ってくれた。
経済事情も苦しかったので、祖父母の支援がなければ、大学にも行けなかった。
自分一人の人生じゃないって、なぜ今まで気づけなかったのでしょう。
とにかく感謝しかない。どうしたら返せるのか・・・。
恩返し。
その言葉が、初めて自分の心に浮き上がってきました。
もちろん、今までも口にはしてましたが、心から思ってたことは一度もなかったように感じます。
「恩を受けている」ということがわかってなかったんでしょうね。
「だって自分は・・・」と、必ず自分に向いてしまってました。
だけど、祖父母の人生が、私の人生を創ってくれた。間違いなく、そう思います。
恩返しがしたい。祖父母がどれだけ素晴らしい人だったかは、残された人の人生で決まります。
返すっていう目的があれば、行動するしかない。
自分にこだわってるから、何もできないんです。
行動するコツは、目的観をしっかり持つこと。
そうじゃなければ、疲れるだけの行動なんて、そりゃあ、やりたくもないですね。
生活を変化させるには、大きな目的によって動機づけられる必要がある。今すぐ欲しい結果を我慢して、将来本当に得たい結果を追求しなければならないからである。
(七つの習慣)
やっぱり、七つの習慣をじっくり学んでみようと思いました。
七つの習慣のなかでは、自分の葬儀を想像し、どういう弔辞をもらいたいかを考えるといいとありますが、祖父のように、皆から惜しまれて旅立ちたいなと思いました。
自分の葬儀。想像するってなかなか難しいけど、やってみたほうがいいです。死は、すぐ目の前。逆算しなきゃ。
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思いっきり泣いたらスッキリした。
黙ってろとか、泣くなとか、誰かに言われたとしても、逆恨みはせずに、スルーしてあげたほうがいいです。
いつか必ず、バカバカしく思えるときがきます。
そして、大人になると、悲しみはどんどんたまっていく。
父親の葬儀の約一年後に、今度は祖父の葬儀とは。父親のほうが先っていうのも、思いもよらないことでした。
だけど、祖父も祖母も父親も、私のなかで生き続けています。
心で生き続けるって、若い頃は意味がわからなかった。気休めのセリフのように感じて。
でも、経験してみたら本当にそう思いました。
なぜなら、その人たちの人生によって、私の人生が創られたから。
こんな人生はイヤだって、ずっと思い続けてきたけれど、実はすごく幸せ(だと思う)。
そこを本気で実感できるようになるには、もう少し時間はかかりそうですけど。
今日、祖父は灰になります。
心の底からの「ありがとう」を伝えたい。
葬儀と言えば白い菊ですが、個人的な思いとしては、もっとカラフルに。