ichigo's blog

気軽な日記ブログです

他人の声と自分の声。どっち優先?想像力を使って改良すればいい|思考は現実化する

f:id:ichigo-it:20190103152338j:plain:w600



自分を大切にすればいいのか? 他人の意見を素直に聞いたほうがいいのか? 


そもそも、ゼロか百か!っていう偏った考えだから、うまくいかない。目的は、そこから改良を重ねること! 自己を知ってバランスをとろう!




5回目の今回は、改良的想像力について。


思考は現実化する
思考は現実化する_アクション・マニュアルつき



本物の願望と改良的想像力

世間に受け入れられたい?

世間に受け入れられたい、という動機が決断するときに強く作用するため、決断の結果はゆがめられたものになりがちである。他人への依存心から出る決断の放棄や、人に好かれたいと思う心で決断を放棄することも自己否定そのものであり、したがってその結果も、おなじものとなる。


やりたいことが見つからない。好きなことがわからない。あるいは、やりたいことはあっても決断できない。その理由は、世間の声に振り回されているからです。たいていの場合は、親・兄弟・親戚の声に振り回されます。


物理的にはそこを抜け出したとしても、心には常に、妄想の声が聞こえてきて、さいなまれる。そうやって、いつも何かに遠慮し、他人の意見を気にして、出し惜しみをする。


または、自分では出してるつもりでも、いつの間にか、「好かれるため」という動機にすりかわっていることに自分でも気づかない。


そんなことを繰り返すうちに、本来の自分がどんどん見えなくなっていって、いわゆる、「他人のモノサシ」「他人軸」「世間体」「見栄」「自分がない」といった生き方を繰り返すことになります。


とは言っても、世間の声に振り回されるのも、別に悪いことじゃない。思いっきり振り回されて、それを楽しんでしまえば、何も問題はないのです。その中から、「本物の好き」に出会えることもあるわけで。


振り回されるかどうか?よりも大事なのは、想像力です。


独創的想像力と改良的想像力

  • 独創的想像力は、本当にゼロからイチを生み出す想像力
  • 改良的想像力は、もともとある概念やアイディアなどを新しく再構成する想像力


この本の中では、想像力のことを、「独創的想像力」と「改良的想像力」の2つにわけています。


独創的想像力は、一部の天才のみが発揮しうるものであって、ほとんどの場合、どんな成功者であっても、改良的想像力を駆使しているそうです。


ゼロからイチを生み出すなんて、ほぼ不可能モノマネから始めるのは当たり前イチに、足し算や掛け算をしていく形でいい。それが、改良的想像力。


真似をする(改良する)ためには、まずは既存のものを知らなければならない。つまり、今までのやり方を学んだり、世間の声を聞いたりすることは、改良的想像力を発揮するためという目的のもとでは、とても有益なことになるわけです。


反発したり文句を言ったりするのではなく、そこから何を生み出すかに集中する。そうとらえればいい。というより、改良的想像力なのですから、それしかできない。


このブログだって、私がゼロから創り出したものではなく、いろんな既存の技術をお借りして、ほんの数パーセント(少数点第何位ほどの数値)の努力だけで、私のブログ!と言ってるわけです。どう考えたって、それしかできない。


そういう意味で、私は、改良的想像力という言葉には、とても勇気づけられました。独創的想像力のほうは、あきらめたほうが身のため。一部の天才と言えば、キリストだったり、孔子だったり、そのレベルってことです。無理!! あきらめよう。


そんなことを目指すよりも、改良的=今あるものを作りかえていく。その想像力を鍛えたほうがよっぽどいい。


だから、世間に振り回されたっていいんです。改良するという前提があるのならば。


私のアムロちゃん好きもそう。
ichigo-it.hatenablog.com



クイーン好きもそう。
ichigo-it.hatenablog.com



騒がれてるから、一緒になって騒いでるだけ。何度も目にするから、「好きなのかも?」って勘違いしてるだけ。


脳には、何度も目にすると好きになるという機能が備わっているんです。
ichigo-it.hatenablog.com


振り回されても楽しいことって、たくさんありますよね。


問題なのは、振り回されることに「苦しみ」を感じてること。その際、考えるべきは、なぜ苦しいのか?ってところです。その可能性としては2つ。


一つは、「図星」だから。
もう一つは、「ノーと言えない」から。


図星のときは、実は自分でもわかってるとき。それなのに、「違う!違う!」と必死で抵抗する。頭の中で言い訳が始まる。我が強くなる。図星であることを隠そうとして、自分を認められない。だから苦しいのです。


「ノー」と言えないときは、本音を言えないとき。本当はそう思っていないけど、しぶしぶ・イヤイヤ・仕方なく、やる。「これは本当の自分じゃない!」心がそう叫んでいる。だから苦しいのです。


どっちにしても、自分の本音が見えるってところに、メリットがあります。だから、苦しいって良いことなんですよ。


どっちの感情も否定せずに、じっくりと分析してみれば、そこから自分の願望に気づいていきます。自分を知る大チャンスを手に入れたのです。


他人の声だろうが、自分の声だろうが、改良して自分のものにすればいい。


自己を知りたいなら、苦しみの中から、自己を発見せよ!


f:id:ichigo-it:20190103152408j:plain:w600

自分がしてほしいことを他人にしてあげる

成功の黄金律とは

自分がして欲しいと思うことは、何よりもまず他人にそうしてあげること


世間の声は気にしない!っていうのと、自分中心じゃダメ!っていうのとは、どう違うのか? よく、おちいりがちな疑問です。この問題、世間様オレ様で考えるとわかりやすいです。


日本語では、「世間様に顔向けできない」という言葉がありますね。これぞ、日本の魂!! 言い得て妙! 日本人をよく象徴しています。どんなに、自分の好きなことをやろう!とか、他人の意見に振り回されないでいこう!とか思っても、日本人はどうしても、世間の思想に縛られます。


だから、思春期になると抵抗するんですよね。でも、思春期の抵抗って、いわゆるオレ様。オレが赤だと言えば赤だ!!!というもの。


よくよく考えてみると・・・、世間様もオレ様も、結局は同じことを言ってるにすぎません。「世間は○○と言っている!」「オレは○○と言っている!」 世間かオレかの違い、ゼロか百かの世界です。


世間様を気にしてる人が、自分を大事にしようと思うとオレ様になる。オレ様になってた人が、他人の意見も聞こうって思うと世間様になる。極端なんです。二択でしかない。どっちを選んでも苦しいんですよ。問題とすべきは、その極端な考え方、偏った見方だってことです。


白か黒か、善か悪か、こっちかあっちか、自分か他人か。ほとんどの抵抗って、大抵はそれです。あまり意味のない議論。どっちでも同じ話です。要するに、グレーがあるってことを知らない。自分も他人もっていう考えができない。欠けているのは、バランスです。


仕事一辺倒(いわゆるワーカホリック)とか、家族しか愛さない(偏愛)とか。どっかの国の○○主義とか。極端な思想は、必ずひずみを生みます。結末が悲惨なのは、破綻した国だったり、テロ集団だったりを見れば一目瞭然。遠い国で起きてる出来事のように思えて、実は自分も、やってることは同じなんです。


器(うつわ)がちっちゃいってこと。一度にたくさんのものを受け入れることができないから、意図的に、範囲を狭くしてしまう。しかも、極端に。


目標を立てるってことは、ザックリ言えば、その器を広げましょうよって話なのです。それでこそ目標です。もちろん、全人類を愛そうとか、そんな仏様のような器にはなれないですが。少しずつでも広げていく努力があるかどうか?


で、何が言いたいかっていうと、成功の黄金律っていうのは大事だなってこと。


シーソーを思い浮かべればわかると思いますが、ちょっと気を抜いてると、必ずどちらかに偏るものです。ゼロか百かに偏る。自分か他人かに偏る。そして、偏ったほうが楽だし、簡単。


当たり前だなと思って、むやみに悩み苦しまないほうがいい。ただ、バランスをとるために何が必要かっていうのが、この黄金律ですね。要は、「誰かの役に立ててるっけ?」ってところを、常に確認しましょうと。


ブログを書いてたって、常に振り回されるんです。ブログ運営術みたいなのがあって、ブログはこうすべし!とか、アクセスを増やすにはこう!とか。自分に自信がなくなってくると、方法論にドップリつかっちゃうときがある。それがイヤになると、今度は逆に、自分の好きにやるのが一番!と、バッサリと反対側にいく。


そんなふうに、日々、自分か他人かに偏りまくってます。なかなかバランスなんてとれないわけですが・・・。それでも、「誰かの役に立ててるっけ?」っていう視点を忘れちゃいけないなぁと。


そんな黄金律をもとに、はて、自分には何ができるのか? 何がしたいのか? もっと具体的にしてみよう。


身につけるべき想像力は、改良的想像力! 既存のものを知らなきゃ発揮できないよ?


f:id:ichigo-it:20190103234236j:plain:w600