思考を深めるには、「内なる言葉」に気づくこと|「言葉にできる」は武器になる
なぜ、「雨」を「線」で描くのか? そもそも、「雨」って「線」だっけ?
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何を話していいかわからない。何を書いていいかわからない。
それはすなわち、自分が何を考えているのかわからないという状態。
自分の「考え」がなければ、外に向かって発することもできないですね。
言葉として外に発するためには、内側に何があるかを知ることが第一歩です。
今回は、「言葉」について探ってみます。
言葉が意見を伝える道具であるならば、まず、意見を育てる必要がある
「言葉にできるは武器になる」
考える=内なる言葉を発している
「内なる言葉」と「外に向かう言葉」
この本では、言葉を生み出す過程には二段階あると言っています。
【言葉を生み出す過程】
- 「内なる言葉」で意見を育てる
- 「外に向かう言葉」に変換する
「内なる言葉」は、頭の中で発している言葉。すなわち、「考える」言葉です。
「外に向かう言葉」は、他人に対して発する言葉。すなわち、「話す」「書く」言葉です。
一般的に、話し方や書き方を磨こうとすると、「外に向かう言葉」をどうするか?という観点になります。
どう言えば伝わるか? どう書けば面白いか?
だけど、「外に向かう言葉」の前に、「内なる言葉」に気づき、それを分析して深めるという作業が必要。
それが、「意見を育てる」ということ。
著者いわく、「相手が聞きたいのは意見であって、言葉そのものではない」ということです。
言われてみると、「そりゃ、そうだ」と思いますが、「内なる言葉」を自覚することが、けっこう難しい。
「内なる言葉」とは、自分の本音であり、自分の視点。
自分が何を思い、何を感じ、どういう視点で物事を見ているのか。
「あ、今、自分はこう思ったな」
「こんな言葉が頭の中に浮かんでいる」
それを瞬時に意識しないと、たちまち消えてしまいます。
だから常に、自分の頭の中を観察していなければなりません。
普段はそこまで意識をしていないため、自分が何を考えているのかがわからないのです。
考えてないわけじゃない。
意識して観察しないと認識できないのが、「内なる言葉」です。
なぜ、モヤモヤするのか?
頭がモヤモヤする理由として、次の2つが考えられます。
- 実は考えていない
- そもそも漠然としている
脳は、「記憶域」と「思考域」に分かれているそうです。
【記憶域】
過去の出来事や気持ちを覚えている領域(保存機能)
【思考域】
新しいことを考える領域(データ処理機能)
実は、考えているように見せかけていて、自分の記憶と照らし合わせているだけということがあります。
過去の記憶をたどって、似たようなものを出してくるのです。
インターネットのキャッシュ機能のようなものですね。
新しいページをわざわざ開くのではなく、過去の履歴から瞬時に取り出している。
新しく読み込んでいるわけではないのです。
人間の脳は、インターネットのように瞬時にアクセスができずに、過去の記憶の中をグルグルとさまよってしまうのかもしれません。
似たようなものを必死で探し回っている状態です。
だから、思考が前へと進まない。
パソコンで、砂時計マークがずっと続いてしまうようなもの。
あまりに遅いと、フリーズしてしまいます。
頭が真っ白になると言いますが、パソコンもフリーズすると、画面が白くなりますよね。
あんな状態になってしまうのでしょう。
もう一つは、そもそも頭の中は漠然としていて、「言葉になっていない」ということがあります。
考えてはいるけれど、言葉にならないのですよね。
イメージでとらえている感じでしょうか。
「言葉」は、脳が発達し、進化して手に入れたものです。だから難しいのでしょうね。
動物は、信号や鳴き声など、簡単なもので合図をしています。きっと人間も、最初はそうだった。
先に言葉が存在していたわけではありません。
頭の中が抽象的で漠然としているのは、当たり前なのかもしれません。
言葉を編み出していくというのは、人間の脳にしかできない、高度な技術。
意識していかないと、いつまでたっても言葉にならないのです。
脳は発達したけれど、それを使いこなせるまでには至っていないということでしょうかね。
まとめると。
モヤモヤとは
- 記憶をさまよっている状態
- 漠然とした状態
それを解消するには、とにかく文字にして書き出すのが良いそうです。
頭の中にあるものを、取り出してあげる作業です。
外付けハードディスクに書き出すことですね。
そうすれば、容量が減るのでスッキリするし、スピードも上がります。
文字にして客観的に眺めることで、考えを深めることもできるようになります。
脳は発達しても、そこは自動化できないっていうのは不思議です。
アナログで動かすしかないようです。
逆に言えば、やっぱり人間は機械じゃないんだってことでしょうか。
「雨」を「線」でとらえる発想は、なかった
現代を生きる私たちにとって、雨は線以外の何物でもないように感じているが、それまでは「雨が降っているな」と漠然としか捉(とら)えられていなかった。
内なる言葉の存在も同様である。その存在を一度認識することができれば、もう二度と見えなくなることはない。
「雨」を描くとき、「線」で表現しますよね。
「粒」だとしても、それは短い「線」だと言えます。
実はそれは、浮世絵作家の歌川広重が、世界で初めて生み出した描写だそうです。
それまでは、「雨を描く」という発想がなかった。描きようがなかったからです。
考えてみれば、とらえようのないものです。
粒のようでもあり、かといって個体ではないので、どう描いていいかわからない。
それを「線」で表現したというのは、画期的なことだったようです。
つまり、「雨は線のようなんだ」という視点を持てなかった、気づかなかったということです。
その話をとおして、「内なる言葉」も同じであると言っています。
表現のしようがないと思っている。そもそも「表現する」という発想さえない。
そこを表現しようと思うことが、「内なる言葉」を意識するということ。
「雨を描きたい」→「どんな形で?」→「そうか、線だ!」
「内なる言葉を表現したい」→「どんな形で?」→「そうか、○○だ!」
これが、言葉が生まれる順序ですね。
思ってることを言葉にできないというのは、当然のことです。そもそも漠然としたものだからです。
「雨」も漠然としたものでした。描けるものではなかった。
それを考えに考え、「線」にしたのです。
同じように、考えに考え、芸術家になったつもりで「言葉」にする。
努力と情熱が必要。
「言葉にする」には、ボーッとしていては無理だということです。
「内なる言葉」を意識すると、自分を理解できる
「内なる言葉」を把握するとは、つまり、次のことを把握することになります。
今、何を感じているか
どんな思考のクセがあるか
どんな人間なのか
それがわかれば、自然と「外に向かう言葉」は磨かれていくそうです。
言葉を磨きたいなら自分を知ろうということですね。
「内なる言葉」をベースに置いて、「外に向かう言葉」をひねり出していく。それが、「自分の言葉で語る」という意味です。
ちなみに、「かわいい」とか「ヤバい」という言葉が流行しているのは、それが便利な言葉だからだそうです。
深く考えなくても、その一言で済んでしまう。しかも、いろんな意味にとらえられる。
悪い意味で「ヤバい」とも言えば、良い意味で「ヤバい」とも言いますよね。
考える力が衰えてしまうのも納得です。
便利な言葉で適当に表現するのではなく、歌川広重が雨を「線」で描いたように、努力の末に、自分の考えを自分で言葉にする。
それこそが、「考えを深める」ことであり、「意見を育てる」ことなのでしょう。
今、自分が思っていることを、頑張って言葉にしてみる。
とにかく「書く」。
それを習慣にすると、頭がスッキリし、「話す力」も「書く力」も、磨かれていくと思います。
そのことを料理に例えて、次のように言われていました。
素材がよければ、味付けは必要最小限でいい。
「外に向かう言葉」という味付けを優先にするのは、「化学調味料」ですね。人工的でつまらない。
「内なる言葉」という素材がよければ、ちょっとの味付けだけで、「伝わる言葉」になるということです。
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「内なる言葉」に意識を向け続けることを習慣にする。
小さな習慣ですね。
ichigo-it.hatenablog.com
あくまでも正直な思いであることが大事です。
カッコつけていては、いつまでたっても「内なる言葉」を表現できない。
それは、人工的な化学調味料の味。誰が作っても変わらない、つまらない料理。
いい人をあきらめて、自分の感情をそのまま書き出す。それを調理する。実はそのほうが、自然の味わいで、美味しい。
エッセンシャル思考をするにも、自分の「内なる言葉」に気づかないことには、どうにもなりませんね。
「内なる言葉」を意識するという発想は初めてだったので、なるほどなあと思いました。
何も考えていないのではなく、取り出し方が下手だっただけなんですね。
言葉と向き合うとは、心と向き合うこと。
できてるようで、できてなかった。
習慣化したいです。
内なる言葉に意識を向け続けていれば、自分だけが持っている視点に気付くことができるようになるまでに、そう時間はかからない。すると、自然と「今自分の頭にはこんな言葉が浮かんでいる」と認識し、自分の考え方のクセや思考を把握できるようになり、常に「自分の頭を覗いているもう1人の自分」の存在を意識できるようになる。