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パラダイム転換:自分を変えるとは、見方を変えること|七つの習慣

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物事を、自分はどう見ているのか。事実や正しさよりも、自分の見方(パラダイム)がすべてです。


見方を変えるという、パラダイム転換ができれば、ガラッと景色が変わるはず。まずは、パラダイムを理解してみよう。


著しい変化をもたらすにはパラダイム転換の力が必要だ。


「七つの習慣」



パラダイムとは

私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件づけされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているにすぎない。そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってしまう。



パラダイムとは

世界を見る見方。
認識、理解、解釈を決めるもの。


人は、事実そのものを認識することはできません。


必ず、自分の過去の経験から解釈をしています。だから、経験してないことに関しては解釈できない。理解ができません。


そういった、物事に対する見方を「パラダイム」といいます。そして、「パラダイム転換」とは、自分の見方を変えること。


暗い夜道で、ザワザワッと音がしたとき、人は必ず、ビクッとするもの。


それは、遠い祖先の記憶。私たちが野生で生きていた頃、ザワザワッと音がするのは、敵が来た証拠だったわけです。


あるいは、怖い映画を観たとか、実際に怖い経験をしたとか、そのような過去があると、ビクッとしてしまう。


でも、よく見たら、風で木が揺れているだけだったということは、多々あります。


そうはいっても、やはり夜道では反応してしまう。「怖がり」ということではなく、過去の経験から解釈をしているのです。


それが、パラダイムというもの。


有名な、錯覚を起こす絵に、若い女性にも、老女にも見えるという絵があります。


一度、若い女性に見えたら、若い女性にしか見えない。老女だと言われても、「そんなバカな」と思います。その逆も同じ。


しかも、最初に若い女性の写真を見せたあとに、この絵を見せると、必ず若い女性に見えるそうです。


老女の写真を見たあとなら、老女に見える。


経験とは、それほどまでに強力なのです。そこから偏見も生まれる。


頑固さも生まれる。自分の経験してきたものと違う!と。


また、立ち位置の問題もあるでしょう。


例えば、裏表で違う色の看板があるとして。


表は、赤色。裏は、青色。


表側に立っている人は当然、「これは赤い看板だ」と言います。一方、裏側に立っている人は、「青い看板だ」と。


どちらも事実です。だけど、どちらも、「これが赤なんてバカじゃないのか」「これが青であるはずがない」と思います。


どちらに立つかで、見える色が違っている。


だから、相手のことを理解しようとしたら、相手の立ち位置に、自分も立ってみないとわからないのです。


相手の立場に立ってみるというのも、「パラダイム転換」です。


人は誰しも、自分のパラダイムに束縛されています。そして、反対意見を言う人を、「わからずやだ」「バカだ」と批判する。


批判とはそういうもの。


自分の経験でしか解釈できていない、自分の立ち位置からしか見えていない。だから相手をバカだと思う。


それはお互いに、そうなのです。


同じ経験をしている人とは、わかり合いやすいというのは、パラダイムが同じだからですね。


自分は客観的かつ正確に物事を見ているつもりでも、他人もまた、鮮明かつ客観的に全く違った見方をしている。「立場はその人の立っている場所によって異なる」ということである。


一番いいのは、同じ経験をしてみることですが、そんなにたくさんの経験はできません。


だから、本を読んだり、いろんな人の話を聞いてみたりするというのは、自分には経験できていないことを知る、良い機会です。


人の意見を聞くことは、相手に従うということではなく、自分のパラダイムを自覚することに意味がある。


そう考えれば、人の意見を聞くことが、もっとラクになりそうです。


そしてときに、「パラダイム転換」が起こる。


「気づき」とか、「ハッとする」とか、「目からウロコ」とかいうのは、自分の中で「パラダイム転換」が起きた証拠です。


そんなふうに意識してみると、他人の意見も少し冷静に聞くことができるかもしれません。


自分のパラダイムに対して責任をもつ

自分の持っているパラダイムとそこからもたらされる影響を意識すればするほど、自分のパラダイムに対する責任がとれるようになる。つまり、自分のパラダイムを現実に擦り合わせ、ほかの人の意見やパラダイムに耳を傾け、より客観的で完成されたものの見方ができるようになるのだ。


相手のパラダイムを考えてみるというのは、とても難しいです。


ついつい、「何を言ってるの?」と思ってしまう。「バカじゃないのか?」と思う。いくら経験が違うとは言っても、なかなか受け入れることができません。


先日、私の母親が親せきと、「うちの娘は○○で・・・」と話してるのを聞いて、私はムカッときました。


母親の立場にたてば、母に共感する人はたくさんいるのでしょうけど、私にも私の立場がある。


当事者になると、やはり主観での判断になるので、客観的に相手のパラダイムも考えてみるということは難しくなります。


いまだに思い出してはムカムカしてます。なんとかグッとこらえ、自分の中で対処しようとモガいてますが。


会社でも、なかなか折り合いのつかない人がいます。というより、大嫌いなんです。


ちょっとしたことで価値観が合わない。例えば、備品をまとめ買いして、大量にあまらせ、ずっと放置しているとか。


え?なんで適切な数量を考えないの? なんで在庫管理しないの?と思ってしまいます。


逆に、あちらはあちらで、私のやり方が気に入らないようで。


これまでの経験が違うのはよくわかるのですが、なかなか受け入れることができない。イライラしてきてしまいます。


でも、理解はできなくても、イライラせずに冷静に対処できるようになれたらいいなぁと思います。見方を変えるということですね。


自分のパラダイムに責任をもつ。わかるようで、わからない。


まずは、「自分のパラダイムだ」ということを意識してみることから、始めてみようかと。


パラダイムを、人格から切り離すことはできない。「どうあるか」は「どう見るか」に直結しているからである。見方を変えれば、あり方も変わる。そして、その逆もしかりである。


結局は、人格の問題。


「どう見るか」を転換できたら、どうなるのでしょう・・・。経験してみたい。



事実なんてない。自分が、どう見ているのか? それがすべて。
パラダイム転換を意識してみよう。

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