他人の目が気になる?〜ヒマラヤの高さも宇宙からは気にならない
人から立派だと言われる行為をするかしないかは、私にはどうでもいいことだ。
「自己信頼」は、考え方というよりも生き方です。
何があっても自分を信じ、他人の考えには合わせない。他人を気にするよりも自分の基準で生きよう!
自分に従って生きる
人生は、他人への見せ物ではない
私は罪をつぐなうのではなく、生きることを全うしたい。私の人生は生きることそれ自体のためにあるのであって、見せ物にするためにあるのではない。華やかだが、腰の定まらない人生よりも、程度は低くてもいいから、偽りのない、まっすぐな人生の方がいい。
人生は、見せ物ではない。自分が思ったように生きていけばいいんです。
どうしても私たちは、他人からの見た目を気にしてしまいます。世間から、家族から、会社から、どう思われるか。それが生きる基準になってしまっています。
だけど、それでは、自分の人生を見失う。華やかだけど心が満たされない人というのは、そのせいなのでしょうね。
「罪をつぐなう」とありますが、罪悪感を癒すために動いているという心理も、実は大きいのです。
これくらいやらないと許してもらえない、もっとやらないと顔向けできない、そんな気持ちに支配されていたりします。
「親に申し訳ない」とか、常に誰かに対して、申し訳なさを抱えているのです。
優しさといえば優しさですが、そうなると、いつまでたっても自分の満足が得られなくなります。
「偽りのないまっすぐな人生」、そのためには、人にどう思われようがどうでもいい、そのような強さが必要なんです。
自分のやるべきことをやる
自分がやるべきことをやれば、あなたの姿がはっきりと見えてくる。自分が本来やるべきことをやりたまえ。そうすれば、あなたは強くなれる。
世間に合わせてばかりいるのは、「目隠し鬼ごっこ」をしているのと同じだと知るべきだ。
自分のやりたいことがわからない。自分の気持ちがわからない。
それは、世間に合わせすぎてしまった結果なのかもしれません。
本当は何をやりたいのかを知っているのではないでしょうか。
だけど子どものように、素直に表現できないのです。
こんなこと言っちゃいけない、こんなことするのはみっともない、そんな思いで、どんどん自分を隠してきてしまいました。
世間の目を取り払ってみたら、どんな自分が出てくるでしょう。
もしかしたらそれこそ、人に貢献できる道かもしれないですよ。
直観に従う
意図的に手に入れようとするものは、ふらついていて腰が定まらない。たわいのない夢想、ほのかで素朴な感情こそが、私の好奇心をかき立て、尊重せずにはいられなくなる。
冷静に考える、理性で判断する、もちろんそれは大事なことですが、問題は、その「理性」とは何なのか?という点ですね。
自分が理性だと思っているものは、実は理性でも何でもなく、ただ単に「人からどう思われるか」それだけの場合があるんです。それを理性だと、言い訳している可能性もありそうですね。
たいてい直観が湧いたあと、「でも」「やっぱり」と、2番目の気持ちが出てきて、そっちに従うもの。
その2番目に湧いてくる気持ちとは、理性よりも、見栄や世間体なのです。
「でも、皆は反対するだろうし・・・」
「やっぱり、お金もないし・・・」
「失敗したら恥ずかしいし」
そして、最初の直観を引っ込めてしまいます。
2番目に湧いてきた思いよりも、最初に湧いた直観のほうが、正直な気持ちではないですか。本当はそっちをしたいはずです。
直観は、自分の気持ち次第でどうにもなるものではなく、自然と湧き上がってくる不可避的なものだ。
見栄や世間体は、いろいろな経験から習得し、身につけたものですが、直観はもっと自然なものです。そして避けることはできません。だから、直観に従ったほうが幸せです。
自分の考えが不安になるなら、自分を信頼できてないということです。
もっと自分を信じていい。それが「自己信頼」の生き方です。
愛想笑いは疲れる
誰しもが必ず味わう、とりわけ屈辱的な経験がある。何かと言えば、あの「間抜けな愛想笑い」のことだ。つまり、気疲れのする席で面白くもない話を聞きながら、相づちとして無理に浮かべるあの笑顔のことだ。
愛想笑いは、本当に疲れます。自分が何をやっているのか、空虚感と倦怠感に襲われます。
しかも、1回くらいはいいかと思って愛想笑いで「イエス」と答えたことがずっと続いていくことがあります。
1回は良くても3回も4回も続くとイヤになってきます。でも今さらどうにもならなくてイヤイヤながらも断れなくなるのです。
そういうときに、愛想笑いは本当に疲れるものだなと
実感します。
時には必要なこともありますが、常にそれでいるとしたら、注意が必要ですね。
もう頭を下げたり、詫びたりするのはやめにしよう。
私の家に、ある偉い人物が来て食事をすることになったとしよう。私は彼の機嫌を取るつもりはない。むしろ彼に私の機嫌を取ってもらいたいくらいだ。
こんなふうに堂々と振る舞えたら楽ですよね。
自分の行動には、信念がある
凸凹なんて誤差の範囲
アンデスやヒマラヤの突出が、地球全体の曲率から見ればどうということはないように、自分の考えの凸凹も、その人の存在全体から見れば誤差の範囲だ。それに、他人が自分をどう評価し、どう裁こうが、どうでもいいことではないか。
宇宙から見れば、ちょっとした凸凹も大した差ではありません。
同じように、自分が他人と違うように見えても視点をあげればやっぱり大した差ではないのです。
また、コロコロ気が変わるとか、持続性がないとか、自分の考えや行動自体に凸凹を感じたとしても、やっぱり大した差ではないのでしょう。
私たちは、とても低く小さい視点から自分を眺めて葛藤してるのです。
全体的に見れば大した差ではない、そのように考えてみると日々の悩みも気にしなくていいことだったり
するかもしれません。
実は、まっすぐに進んでいる
どんなによい船でも、何百もの航跡を描いてジグザグに進んでいく。だが、距離を取って眺めてみるといい。船は目的地に向かって真っすぐ進んでいる。
凸凹の話と同じで、蛇行してるように見えても実はまっすぐに進んでるわけです。
自分に自信がないとは言っても、やはり何かの信念があって、いつもそこに向かっているはずです。
あなたの信念は、必ずあなたの行動に現れています。
他人に何かを言われて、不安になっただけではありませんか。自分の思った道でいいのです。
見てくれを、あざ笑う
何がどうあろうと、今すぐ行動せよ。見てくれなんかあざ笑え。そうすれば、見かけなんて気にならなくなる。
見栄というのはやっかいですね。自分がどう思われるのか、どう見られるのか、無意識のうちに気になってしまい、本当の望みに忠実になれません。
でも、見てくれなんて、あざ笑ってしまいましょう。
それが本当にできたら、どれだけ人生が変わるでしょう。
~まとめ~
高いところから見れば、
ちょっとの違いは大したことない
自分の声に従って生きる
それが自己信頼
- 作者: ラルフ・ウォルドー・エマソン
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