他人の目が気になる?〜ヒマラヤの高さも宇宙からは気にならない

自己信頼



人から立派だと言われる行為をするかしないかは、私にはどうでもいいことだ。


「自己信頼」は、考え方というよりも
生き方です。
何があっても自分を信じ、
他人の考えには合わせない。
気の持ちようではできないことです。


前回は、自分の言葉で語ることについて、
まとめました。
自分の言葉で語ろう~自分を信じて生きていく - ichigo's blog




今回も、エマソンの「自己信頼」より、
他人を気にするよりも
自分の基準で生きることについて
見ていきたいと思います。



自分に従って生きる

人生は、他人への見せ物ではない

私は罪をつぐなうのではなく、生きることを全うしたい。私の人生は生きることそれ自体のためにあるのであって、見せ物にするためにあるのではない。華やかだが、腰の定まらない人生よりも、程度は低くてもいいから、偽りのない、まっすぐな人生の方がいい。


人生は、見せ物ではありません。
自分が思ったように生きていけばいいんです。


どうしても私たちは、
他人からの見た目を気にしてしまいます。
世間から、家族から、会社から、
どう思われるか。
それが生きる基準になってるんです。


だけど、それでは、
自分の人生を見失うということです。
華やかだけど心が満たされない人というのは、
そのせいなのでしょうね。


「罪をつぐなう」とありますが、
罪悪感を癒すために動いている、
という心理も、実は大きいのです。


これくらいやらないと許してもらえない、
もっとやらないと顔向けできない、
そんな気持ちに支配されていたりします。


「親に申し訳ない」とか、
常に誰かに対して、
申し訳なさを抱えているのです。


優しさといえば優しさなのですが、
そうなると、いつまでたっても、
自分の満足が得られなくなります。


「偽りのないまっすぐな人生」、
そのためには、
人にどう思われようがどうでもいい、
そのような強さが必要なんです。


自分のやるべきことをやる

自分がやるべきことをやれば、あなたの姿がはっきりと見えてくる。自分が本来やるべきことをやりたまえ。そうすれば、あなたは強くなれる。
世間に合わせてばかりいるのは、「目隠し鬼ごっこ」をしているのと同じだと知るべきだ。


自分のやりたいことがわからない
自分の気持ちがわからない


それは、世間に合わせすぎてしまった、
その結果なのかもしれません。


本当は何をやりたいのかを
知っているのではないでしょうか。


だけど子どものように、
素直に表現できないのです。
こんなこと言っちゃいけない、
こんなことするのはみっともない、
そんな思いで、
どんどん自分を隠してきてしまいました。


世間の目を取り払ってみたら、
どんな自分が出てくるでしょう。


もしかしたらそれこそ、
人に貢献できる道かもしれないですよ。


直観に従う

意図的に手に入れようとするものは、ふらついていて腰が定まらない。たわいのない夢想、ほのかで素朴な感情こそが、私の好奇心をかき立て、尊重せずにはいられなくなる。


冷静に考える、理性で判断する、
もちろんそれは大事なことですが、
問題は、その「理性」とは何なのか?
という点ですね。


自分が理性だと思っているものは、
実は理性でも何でもなく、
ただ単に「人からどう思われるか」
それだけの場合があるんです。
それを理性だと、
言い訳している可能性もありそうですね。


たいてい、直観が湧いたあと、
「でも」「やっぱり」と、
2番目の気持ちが出てきて
そっちに従うものです。


その2番目に湧いてくる気持ちとは、
理性よりも、見栄や世間体なのです。


「でも、皆は反対するだろうし・・・」
「やっぱり、お金もないし・・・」
「失敗したら恥ずかしいし」


そして、最初の直観を引っ込めてしまいます。


2番目に湧いてきた思いよりも、
最初に湧いた直観のほうが、
正直な気持ちではないですか。
本当はそっちをしたいはずです。



直観は、自分の気持ち次第でどうにもなるものではなく、自然と湧き上がってくる不可避的なものだ。


見栄や世間体は、
いろいろな経験から習得し、
身につけたものですが、
直観はもっと自然なものです。
そして避けることはできません。
だから、直観に従ったほうが幸せです。


自分の考えが不安になるなら、
自分を信頼できてないということです。


もっと自分を信じていいのです。
それが「自己信頼」の生き方です。



愛想笑いは疲れる

誰しもが必ず味わう、とりわけ屈辱的な経験がある。何かと言えば、あの「間抜けな愛想笑い」のことだ。つまり、気疲れのする席で面白くもない話を聞きながら、相づちとして無理に浮かべるあの笑顔のことだ。


愛想笑いは、本当に疲れます。
自分が何をやっているのか、
空虚感と倦怠感に襲われます。


しかも、1回くらいはいいかと思って
愛想笑いで「イエス」と答えたことが
ずっと続いていくことがあります。


1回は良くても
3回も4回も続くとイヤになってきます。
でも今さらどうにもならなくて
イヤイヤながらも断れなくなるのです。


そういうときに、
愛想笑いは本当に疲れるものだなと
実感します。


時には必要なこともありますが、
常にそれでいるとしたら、
注意が必要ですね。



もう頭を下げたり、詫びたりするのはやめにしよう。
私の家に、ある偉い人物が来て食事をすることになったとしよう。私は彼の機嫌を取るつもりはない。むしろ彼に私の機嫌を取ってもらいたいくらいだ。


こんなふうに
堂々と振る舞えたら楽ですよね。



自分の行動には、信念がある

凸凹なんて誤差の範囲

アンデスやヒマラヤの突出が、地球全体の曲率から見ればどうということはないように、自分の考えの凸凹も、その人の存在全体から見れば誤差の範囲だ。それに、他人が自分をどう評価し、どう裁こうが、どうでもいいことではないか。


宇宙から見れば、
ちょっとした凸凹も
大した差ではありません。


同じように、
自分が他人と違うように見えても
視点をあげれば
やっぱり大した差ではないのです。


また、コロコロ気が変わるとか、
持続性がないとか、
自分の考えや行動自体に、
凸凹を感じたとしても、
やっぱり大した差ではないのでしょう。


私たちは、とても低く小さい視点から
自分を眺めて葛藤してるのです。


全体的に見れば大した差ではない、
そのように考えてみると
日々の悩みも
気にしなくていいことだったり
するかもしれません。


実は、まっすぐに進んでいる

どんなによい船でも、何百もの航跡を描いてジグザグに進んでいく。だが、距離を取って眺めてみるといい。船は目的地に向かって真っすぐ進んでいる。


凸凹の話と同じで、
蛇行してるように見えても
実はまっすぐに進んでるわけです。


自分に自信がないとは言っても
やはり何かの信念があって
いつもそこに向かっているはずです。


あなたの信念は、
必ずあなたの行動に現れています。


他人に何かを言われて、
不安になっただけではありませんか。
自分の思った道でいいのです。


見てくれを、あざ笑う

何がどうあろうと、今すぐ行動せよ。見てくれなんかあざ笑え。そうすれば、見かけなんて気にならなくなる。


見栄というのはやっかいですね。
自分がどう思われるのか、
どう見られるのか、
無意識のうちに気になってしまい、
本当の望みに忠実になれません。


でも、見てくれなんて
あざ笑ってしまいましょう。


それが本当にできたら、
どれだけ人生が変わるでしょう。



~まとめ~

高いところから見れば、
ちょっとの違いは大したことない


自分の声に従って生きる
それが自己信頼




自己信頼

自己信頼